プロフィール
私の大きな人生のテーマは、「なりたい私になる!」です。
右脳トレーニングや潜在意識を学んで、それを生かすチャレンジをして、20代で念願の職業に就き → 37才で結婚 → 40才で出産 → 56才で法人を設立 → 60代の今は母を介護し96才で見送ってから2023年(67才)から新しく奮起してビジネスを再開しています。
アイディアを行動に移したため、失敗を繰り返したり、人にも迷惑をかけてきました。 実はそれはあとでよくよく思い返してみると、
「なりたい自分になるためのレッスンだった」ということが多かったです。
40代以上の女性が仕事でキャリアを積みながら、また懸命に子育てをしながら、「私っていったいどうなりたいのかしら?」と時々思い返すこともおありかもしれません。
60代になった今、「そのころの自分に声をかけてみたい」そんな気持ちで女性の応援団になれたらいいなぁと願っています。
【小学生時代】
小学校の教師の父と同じ学校に通うことに。
当時自転車は各家庭にない時代(1960年代はまだまだ貧しかったのです)、父は我が家の子供用の黄緑色の自転車を学校に置いて、放課後暗くなるまで児童たちに懸命に教えていたんです。
その姿を教え子の一人として見ていたのが、私の教育の原点。 まわりの児童たちの好奇心にあふれたキラキラした眼が焼きついています。
小2からピアノのレッスンを始める。
テレビもまだ普及していない頃、母はお金をかき集めピアノを購入してくれ、そのころ山の中に住んでいた為、車が途中までしか通らず丸太を数本引いてゴロゴロとピアノを移動。
よ~く覚えています。
日本はまだまだ貧しかった時代、こういう教育をしてくれた両親の姿は焼きついています。
小4で転校。
1学年20名くらいの学校から1学年3クラスある学校へ。 「井の中の蛙」を初めて経験。
お山の大将の立場から、田舎者と言われてずいぶん悲しい思いもしてきました。
ただ、ピアノが弾けたことでだんだん友人たちもできたのです。
小6の時に父を突然病気で亡くしました。
【中学時代】
日本が世界にその力を魅せた1970年の大阪万博に、地元の南日本新聞社や大阪の鹿児島県人会の方々が母子家庭の中学生を20人招待
私は中2のときに招待され、「世界って、すごい!」を体感。
そして、2回目の「井の中の蛙」を経験。
「知らない世界という存在」を知ることができたのです。
万博で世界を身近に感じた一ヶ月後に始まったTBSドラマ「アテンションプリーズ」に魅せられ、スチュワーデスになると決意。
弁論大会でその夢を語ったら、「あの顔でなれるわけない!」と指までさされました。
ただ、自分の顔はよくわかっていたので「そうだよね」と思ったのは覚えています。
私はイチョウの葉っぱに詩を書いたりする夢見る夢子でした。
後年、NHKの「ようこそ先輩」の番組を見て、私もなにか恩返ししたいと思い、
母校で「あなたの夢はなんですか? 夢は叶います」のタイトルで授業をした
とノートに書きくわえました。
「紙に書く」というのは簡単だけど、ほとんどの人がやっていない重要なこと・・・。
ここにも「なりたい自分のエピソード」があります。
すると、紙に書いた数年後、母校から90周年の記念に先輩の公開授業をお願いしたいと電話があったのです。
すぐに「はい、喜んで。 題名も考えています」と返事したら、びっくりされました。
3学年7クラスの授業をする21名の先輩方は、有名な地位にいるかたばかり。
鹿児島県から遠く離れた宮城県に住む、そのころ5才の子育て中の主婦の私に連絡があったことは、やはりノートに書いていたおかげ。
ローカルのテレビ放送で私の授業が5分ほど放映されました。
400字の原稿用紙にいっぱい書いてある生徒からの感想文が、数日後30数名分送られてきました。
その言葉に後押しされたこと、また伝わった喜びを知って講師の道に入ったのです。
【短大時代】
英会話ができるのかと思い込んでいたのに、英文科は英文学を学ぶところで英会話の授業はなし。 レコードを薄くしたソノシートと呼ばれるもので、独学で英会話を学びました。
【会社員時代】
日本航空国際線20年間勤務
ここでも「夢を口にだす」という実験が成功しました。
そのころのJALは日本の不景気のまっただなかでCAの採用は数年間ありませんでした。
ところが、友人が「JALの試験があるよ。カードに書くのを失敗するといけないから2枚もらってきたけれどいる?」と教えてくれたのです。
口に出していると、情報が集まってくるんだと実感。
入社試験の英会話の面接で何をきかれているのかさっぱりわからず、「えっ?」と大きな声で聞き返したら、面接官がびっくりして日本語で質問をしてくれました。
後に自分が教官になったことでわかったのでしたが、私がつい日本語で聞き返してしまったような、素直で正直な突発対応ができるCAを必要としていることがわかったのです。(笑
訓練時代、英語の授業で、質問そのものがわからず答えられない私に同期がやさしくフォロー。
みんなで居残り勉強をして20人の同期が全員合格。
そんな私をよく採用してくれたと、懸命に働きました。
教官、パーサーとして20年間勤務
担当したファーストクラスでは、搭乗された本田宗一郎氏をはじめ、たくさんの経営者から謙虚な姿勢とユーモア、たたずまいを学びました。 写真はアメリカ人の子供に漢字のサインをねだられ、代わりに日本の印鑑を押す私。
在職中、35歳のときに、夢を叶える右脳トレーニングに出会いました。
明日のことも未来なので毎日明日のことを時間まで具体的にノートに書いていました。
たとえば
○時○分出発、健康に安全に和やかにお客様を目的地までご案内でき、○時○分定刻通りに着陸できた
というように、事細かに書きました。
右脳トレを使って37歳でやっとやっと結婚できました。 宮城県から成田空港まで3年間通いましたが、このノートのおかげで雪など天候がおかしくなっても定刻に着くことができました。
一度も遅刻なし。
40才で自然妊娠。
これも右脳トレでイメージし続けていたのです。
書きまくったノートをみながら、ピンときたらアイディアがでてくるのでその10個をすべて実践。
このときに
イメージする →アイディアが出る → 行動する
どれだけ「行動する」ことが大切かを体感。
キャリアを積まれた女性で結婚したいし赤ちゃんも産みたいけれど、なかなか自分の気持ちに正直になれない方もいらっしゃると思います、私もそのころのことを思うと泣けてきます。 それらも、ブログの中でどんなことを実行したのかを詳しく書いていきますね。
妊娠中は本社の広報部報道で世界中からくる電話の問い合わせを担当。
ここでも英語が聞き取れずトイレで泣いていました。
つわりで吐きながら、通勤の満員電車の中で英会話の音声を右脳にいれる方法で、1ヶ月後、なんと質問が聞き取れ返答ができるようになったのです。
出産後、退社。
【起業するまで】
退社時に、JALの名刺を捨てられない自分に「寄らば大樹の陰」の意識があったことに気がつき、びっくり。
いっぱい見て、いっぱい感じてほしいと3歳までは子供と一緒に全国を旅。 前だっこしたり、おんぶしたりと紐は便利。
銀行のATMでお金を引き出せずに、もたもたしている自分に 「これではいけない」と奮起。
↓
数々のセミナー参加が始まる。
↓
毎週1回は東京、大阪に仙台から通ったのです。
そして、いわゆる頭でっかちの「セミナーおたく」になってしまったのでした。
【プライベート】
ニックネームは、ハイジ。 ハイジブログはここからとりました。
いつも応援してくれる主人の妻
男の子の母
自分では一所懸命に妻としてやってきたつもりでしたが、主人が4回家出。
そのことを通して、自分が何を醸し出しているかがその人を形成することを体感。
後にコーチの一番人気の「本物のモテ女講座」へと。
息子の出産は自分の意思で産まれてきてほしいと願って、自宅のお風呂で主人と二人きり。
赤ちゃんのおしりがいつもすっきりしている方が脳にいいとのことで裸育児実践。 これもまわりの応援なくしてはできなかったです。
息子が中1のときに不登校を経験、無理やり学校に行かせようとしている自分にびっくり。 すべて世間体だったと気づきました。
息子はカドカワ・ドワンゴのN高校の一期生として入学。
キラキラした眼で好奇心を引き出してくださった学校に感謝です。
現在は、大学生。
義父との同居で慈しみのある子育てをしてもらうことが出来ました。
義父77才の古希のお祝いを聞いたところ、小2からあこがれていた
「イタリアのピサの斜塔にいきたい」 でした。
毎日みていたら、なんと 行けるはずのなかった主人までが10日間4人一緒に旅行できたのです。 「誰が」が重要で写真などのイメージが必要だと体感しました。
母は95才、電話の声は70代。 1ヶ月ごとに鹿児島に帰り、母とお買い物をして遊んでいます。
(2022年亡くなる、この年はコロナの真っ最中でしたが合計で4ヶ月も一緒にいられて楽しく過ごせて幸せだったのも家族と事業をしていたおかげ)
【個人事業主時代】
息子の幼稚園時代、「お金がない、時間がない、体が疲れる」という話をまわりのお母さんたちからきいて、「よし!」 と立ち上げたのがハイジ企画。
「子供たちにたくさんの有意義な経験をさせられるお父さんとお母さんをつくる」というのがミッション。
数々のセミナーに参加してきたことで、むしろ頭でっかちになっている自分に気づけていなかったのです。 結局、私が間違ったリーダーシップを発揮し過ぎてしまい、自立する人ではなく依存する人を作ってしまったという後悔があります。
「あなたの利益が上がる右脳トレーニング」のDVDを発案、応援してくださる方に制作をしていただきました。
その方法で、OGとして倒産したJALの再建案を3つ出し稲盛和夫名誉会長に直接届く方法のアイディアを生み出し、再建案が届き、その案に対する4通の返信をいただきました。
右脳トレがプライベートだけでなく仕事にも通用したことを体感。 自信をつけて誰にでもできるんだということを、講座や企業研修で行ない始めました。
【法人立ち上げ】
2011年東日本大震災で 仙台の自宅が被災。 2012年 エグゼクティブクルー株式会社を設立。 「なりたい私になる」女性を応援しています。
新聞に掲載されたときの画像になります!
事業紹介
モチベーションアップに特化した13項目のコーチのHP
40代以上の女性が更に輝く水溶性ケイ素 トリプルディーの販売
最後に・・・・
私がまだ一歩を踏み出せずにいた頃、私のコーチや尊敬する方に後押しをしていただきました。
恥をかくのが嫌な自分に、「失敗してもいいんだよ、失敗したら人の痛みもわかるんだ」と教わり、失敗を実際にいっぱいしてしまったことで学びを得られました。
自分が傲慢で鼻高々だった時期、迷惑をかけてきたことすら気づけなかった時期もありました。
私自身が、どれもこれも、まだまだ進行中です。
このブログを通して私も元気をいただきつつ、ご一緒に新しい一歩を踏み出していただければ、こんなうれしい事はありません。